2018/6/7の2

今週のお題「修学旅行の思い出」

 

修学旅行はどれも良い思い出として覚えている。

小学校では函館、中学校では那覇、高校では関西だった。

函館では、小学生ながらも食事がひたすらに美味しかったという記憶が今でも、というかそればっかり記憶に残っている。

函館朝市の市場の間にあるテーブル席が2つの小さな丼屋のテントの下で食べた海鮮丼、1カット(1/8)100円で売っていた夕張メロン、お土産に買ったいかめし、何から何まで美味しかった。今でも函館に思いを馳せ続けているしなんなら住みたいと思い続けているくらいには。

 

沖縄の修学旅行は異国情緒あるリゾートホテルに泊まったりシュノーケリングで海に潜ったり沖縄らしいプランが組まれていた。組まれていたのだが行ったのは12月、流石の沖縄でも海に入るのは無茶があったと今でも思う。気温は高いし一見して海も暖かかったが、暖かいのは海面だけで海に浸かるとなるとかなり体が冷えて、シュノーケリングを楽しむ余裕は海に浸かってる時間が長くなるほど萎縮していった。ただ、ナマコを投げ合ったり綺麗な海中を見られたことは楽しかったと思う。

 

関西では京都、奈良で寺社仏閣を見て回り、大阪でUSJに行くなどしたが、夜の自由時間にホテル近くのとらのあなメロンブックスで同人誌を買いあさったことが印象に強い。地元は同人ショップがなく、アニメもネット配信しかないため、田舎のオタクはサブカル供給にかなり飢えている。上京した今となってはわざわざ関西まで来てこんなことをしていたのか...と呆れ半分で笑ってしまうが、少しおかしい部分もそれはそれで楽しかったと思えるのである。

 

お金のある今も旅行できるが、狭い世界を生きていた頃に行く旅行はより新鮮さが増すものであるし、その新鮮さは今になって振り返るとノスタルジーでもあり、つまりどういうことかというとひたすらに、記憶を戻して修学旅行をまたしたいということだ。

2018/6/7

自分が不出来過ぎると、褒められても辛いし怒られても辛い。だから精神は追い詰められる一方だ。怒られると額面通りに辛いし、褒められたとしても自分が心の底から尽力したと思えていないから「本当は相手も本心から思っていないだろう」と下手な勘ぐりをしてしまう。自己肯定感のなさ、根拠のない自信のなさとか反骨精神のなさとか不出来なりの心の持ちようも持ち合わせていない。この先生きのこるのが心配になってきた。

2018/05/12

めちゃくちゃ面白い発想(個人的見解)ができるのってだいたい深夜帯から早朝にかけての「眠れないけど心地いい」ときか、「眠れないけどここで寝なきゃこれ確実に昼に眠くなるな」っていう謎の安心と真っ当な焦燥感の時だけだし、そういう時にメモを取る動作をできるかどうかっていうのも気分次第だから困り者だ。この文章もそういう時間帯に書いてるが。じゃあ意図的に寝不足に近い精神状態に持っていくという話になる。社会人という規範のもとで定期的に寝不足の状態を作るのは好ましくないから、酒やタバコなどで後日に残らないように、微調整しながらトリップするくらいしか思いつかない。なんらかの対策が必要だ。多分体力つけてから行動を起こした方が最良だとは思うけれども、甘えと仕事に疲労を残したくない気持ちでいっぱいなので、喝を入れる必要もある。やらなければ始まらない。

2018/4/25

「俺はガンダムで行く」このセリフは鑑賞前は変なセリフだなって感じではあるけども本編を振り返って見ると夢と誇りが詰まっためちゃくちゃに強いセリフということがわかる。人間は憧れを持たずにはいられない生き物である。そしてその憧れに近づく手段の一つとして対象と同一化を図ることがある(コスプレしたり、好きなセリフを覚えたり)。一方レディ・プレイヤー1の舞台のオアシスはコインとアイテムがあれば自分の望む姿になることができる。そして冒頭のセリフが出てくるのは敵のバリアに対する総力戦でストーリーでも山場のシーンだ。ゲームの命運を分ける総力戦でそのうえ巨大ロボットに変身できるのは2分間という制約がある。トシロウは出撃するタイミングをめちゃくちゃ渋ってエイチに急かされており、溜めに溜めて彼は「俺はガンダムで行く」と言ったのである。重ねて述べるが、オアシス中から集まってくる規模で、その上自分たちの楽園の存亡をかけるほどの戦いに、自分が大好きな、愛している姿で参戦するのはこの映画をわかって観に来ている人間にとっては夢の一つに違いない。「俺はガンダムで行く」と言うに決まっている。俺だって言う。

2018/4/23

レディ・プレイヤーワン。人々が現実の問題を投げ出してVRゲームに夢中になってる世界で、ゲームの運営権利を引き継げるという開発者が隠したイースターエッグをプレイヤーが血眼になって探す。主人公は叔母の家で叔母のヒモと暮らすしょっぱいギークなんだけど、開発者にめちゃくちゃ詳しいからどんどん至る鍵を見つけて行ってイースターエッグにたどり着く。

仮想空間のスケール感(どんな場所でもある)がめちゃくちゃ出ていたのが良かった。でかいのはもちろん扉くぐったり振り向いたりしたときに景色がどんどん変わって行くのが仮想空間を上手に使っているし、自分の認識が騙されていくのが面白い。また仮想空間の話ばっかりじゃなくて、現実の話、もしかしてアバターの中身がもしかしてネカマなんじゃないのとかめちゃくちゃでかい金が動くんだから企業ぐるみでイースターエッグ狙うやついるんじゃねぇのとかのネトゲを思い出させるところがあってなんか懐かしいと言うかなんともいえねぇ...。これは話のオチでもゲームは現実世界の逃げ場ではあるけどうまい飯とかそういう現実の美徳も忘れんなよなというところでも繋がっていた。(もっとなんか言うべきことがあった気がするけど忘れた)。なによりもゲーム開発者は自分のゲームをみんなが熱中してくれることに喜びを感じるし隅々まで遊び尽くして欲しいという愛の深さがあって、そう言う感情がゲームのイースターエッグなんだろうな。

2018/4/14

大皿で皆で撮り合うような料理が苦手だ。気の置けない友人や家族ならまだ我慢できるが、親しくない知り合いや上下関係のある人間だと余計に気を使ってしまい料理を素直に楽しめない。大皿料理では個別の料理で確保されているパーソナルスペースを、互いに重ね合うことが不可避であり、料理の分量、箸づかい、溢れる料理、などなどなど、我慢ならない点が多すぎる。気の知れた友人や友達はこの点どうかというと、そういう関係になるような人間は自分が不快にならない程度にわきまえているし、家族に至ってはそもそも許されるような感性の教育(食育)を自分に施してきている。下品な食べ方をする人間を私は気にするし、上品な食べ方をする人間に気にされるかを私は気にしてしまう。ただ、食事よりも本当に鼻持ちならないのは他人による寝床だ。寝床は自身の体を敷布団と掛け布団でほとんど覆いつくす。時として顔を埋めて幸福な睡眠を貪る。ここに他人の匂い、他人の散らかしたゴミがあるだけで眠りにつくことはおろか、自分の寝床であるにもかかわらず横になることすら憚られる。これらは生き物としての縄張り意識に結びついているのは間違いないだろうし、人間である以上当然気になってしまうものであると考えているが、世の中にはなにも気にならない、なにも気にしないように見える人間もいるようだ。